新選組は、幕末に京都で活躍した武士集団として広く知られていますが、その前身には「浪士組」や「壬生浪士組」といった集団がありました。これらの組織は、時代の混乱とともに誕生し、次第に新選組へと発展していきました。この記事では、新選組の前身である浪士組と壬生浪士組がどのようにして誕生し、変わっていったのか、その背景と過程を解説します。
浪士組が結成されたのは、幕末の動乱期、文久2年(1862年)のことです。当時、京都では尊王攘夷派の志士たちが活動を活発化させ、治安が悪化していました。こうした状況に対処するため、幕府は将軍警護を目的とした武装集団の結成を決定し、これが「浪士組」として発足しました。この浪士組は、後に新選組の中心人物となる近藤勇や土方歳三、沖田総司らが所属することになる集団です。しかし、当初の浪士組はさまざまな背景を持つ者たちが集まった寄せ集めの集団であり、まだ統制が取れていませんでした。
浪士組が京都に到着した翌年の文久3年(1863年)、内部で大きな分裂が生じます。発案者である清河八郎が尊王攘夷を掲げて江戸への帰還を宣言したことに反発した近藤勇や土方歳三、芹沢鴨らは京都に留まり、新たに「壬生浪士組」を結成することを決めました。この壬生浪士組こそが、後に新選組へと発展していく集団です。
壬生浪士組は、京都守護職である会津藩主・松平容保のもとで、京都の治安維持を任されました。この時点で、壬生浪士組は正式に京都で活動する武士集団として認められるようになり、京都市中での警備活動を行うようになります。しかし、その活動は順風満帆ではありませんでした。内部では芹沢鴨を中心とした水戸派と、近藤勇を中心とした試衛館派の間で抗争が勃発し、最終的には近藤派が芹沢派を粛清する形で組織の統一が図られました。
この内部抗争を経て、壬生浪士組は新たに「新選組」と名を改め、正式にその存在を確立しました。新選組はその後も京都での治安維持に大きく貢献し、特に池田屋事件では尊王攘夷派の志士たちを捕縛し、京都を大火の危機から救ったことでその名を轟かせました。
新選組の前身である浪士組と壬生浪士組の歴史を知ることで、彼らがどのようにして幕末の動乱期を生き抜き、最終的に武士としての地位を確立していったのかをより深く理解することができます。新選組の歴史は、単なる武士の物語ではなく、時代の流れの中での生き残りをかけた壮絶なドラマでもあります。